

弁天池公園から少し走り、バッタリと出会うことができました。|
この付近より南は千石沼と呼ばれた広大な低湿地で、車の通れる農道はほとんどなく、交通の手段は川舟が利用されました。しかし水路は落差があるために船越
場のところでその都度荷物を積み替えなければなりませんでした。 バッタリは、パナマ運河と同じ方法で、落差のある水路を、二つの水門を操作して舟を通す閘門です。 このバッタリは、上流部の閘門と、下流部の閘門との二つの装置からなっています。 門真市教育委員会
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| 名 前 | 史 跡指定 | 築 年 | 所 在地 | 利 用可否 | 記 事 |
| バッタリ |
門
真市史跡 |
不
詳 |
大阪府門 真市南野口町22 | 否 |
R163に出て、未だ走ったことのない清滝峠に向かいます。
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日置山遺跡
日置山遺跡は、日置天神社境内とその周辺を指し、かってはタニシ貝塚として知られていたが、昭和五十七年の発掘調査により中
世の貝層をはじめ溝・土杭などが確認された。また、日置郷の開発のために破壊された古墳(方形墳)と考えられる遺稿を検出した。このように、日置山遺跡は古墳時代から中世まで複合遺跡で、周辺には日置千軒と伝えられる繁栄の跡が眠っているものと思われる。 日置天神社
日置天神社には、惟喬親王(844〜897)が交野ヶ原で遊猟したとき、愛鷹の姿が見えなく立ったので、日没を惜しんで「日
を止めて置かせ給え」と天神に祈願したという伝承がある。中世におけるこの付近は、東高野街道に発達した集落(日置郷)として賑わい、社寺が甍をきそっていたという。しかし、南北朝期の動乱に際したびたび戦禍 に見舞われ、14世紀中頃には民家・堂塔ともに灰燼に帰したと伝えられる。その後16世紀中頃、真宗8世蓮如の六男蓮淳を招いて当地を寺内村(招提寺内 村)として再開発したおり、当社を寺内鎮守として再建したと伝えられる。 1995年枚方市教育委員会
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夕日
左の写真のような、金属製の溝の蓋をグレーチングと言います。